2018年09月02日 | 週報 2018
2018-33
はじめに‥‥ぶどうの木のたとえから、父なる神が農夫、イエスがぶどうの木で、私たちは枝であり、聖霊なる神が実を結ばれる、ということを学ぶ。
Ⅰ.「農夫」が植えた「ぶどうの木」により生かされる「ぶどうの枝」がみを結ぶ
1.枝は、完全に木に依存している。
2.木は、どんな実が結ぶのかのすべてを、枝にまかせている。
Ⅱ.枝が木に依存していなければ
1.枯れて、焼かれる。
2.死んでいるのと同じ状態になる。
Ⅲ.枝が木に依存していれば
1.ぶどうの実を結ぶ。
2.もっと多くの実を結ばせるため、刈込がなされる。
3.接ぎ木されて、ぶどうの木と一心同体になる。
4.枝が結んだ実は、実らせたぶどうの木を現す。
Ⅳ.教会がぶどうの木で、その会員は枝である
1.バプテスマを受けて、まず教会につながらなければならないい。
2.教会に「とどまる」ということがなされていなくては、いのちの成長はない。
3.会員一人一人がキリストを現す実を結ぶことは神の栄光となる。
さいごに‥‥「父なる神」が建てられた「御子キリスト」のからだである教会は、「聖霊」の宮である。これが教会により現された三位一体の教理である。教会を中心とした信仰生活を送っていくべきである。